まぼろしの野呂山サーキット
           第一章
野呂山サーキット
            第二章
野呂山スピードパーク
            第三章
わが青春のNSP
           最終章
写真館資料館
     小山自動車写真館
写真館資料館
       まきの資料館
写真館資料館
    あらいさんちの写真館

       サーキットの施設
サーキットの歴史
まぼろしの
野呂山スピードパーク
平成15年5月11日

友人のアナ西元さんが野呂山サーキットの跡を見てみたいとHPの日記に書いた。
それを読んだ私は勇気を貰いました・・・
大袈裟だと思うかもしれませんが、運命は変わりつつあるような気がしてならないのです。(~o~)V
とにかく焦らずじっくりと大地を踏みしめながら歩いていこうと思います。
今を楽しみながら。
野呂山スピードパーク

第三章


 ◆野呂山◆

  色んなことを調べるうちに解ってきたことがあります。
  それを先に報告します。

  調査にご協力戴いた方たちをご紹介します。

大変お世話になりありがとうございました。一生懸命調べてくださった方がたくさんいらっしゃいます。私のようなものにご協力くださった方に深く感謝申し上げます。
(敬称略・順不同)
川尻町関係




安浦町関係





呉市関係


その他
川尻町役場
川尻町図書館
川尻町史編さん室  (訪問・資料抜粋)
K社の方  (訪問)

安浦町役場  (訪問・航空写真複写)
安浦町図書館  (調査)
安浦町在住 UM様
   〃    現野呂山入植者の方


呉市史編さん室


広島県庁  (調査)
中国新聞社  (調査・資料複写)
東広島市図書館  (訪問)
浅田さん (JAF)
永山さん (ディスモンド社長・JMRC委員)
藤井さん (SF自動車 代表)
上西さん (うえにし電化 代表)

小山自動車さん (写真貸借)
新井鐘哲さん (写真貸借)

牧野さん「くるま村の少年たち」主宰者 (資料拝借)
  
平成15年5月22日

 野呂山オープンに携わった黒瀬町在住の林さんに見ず知らずながら、お電話をして面会させて戴けることになりました。

平成15年5月23日

約束の時間に林さんからお電話を戴き、「当時、企画部長だった人を一緒に連れて行っていいでしょうか」と言われました。もちろんこちらは大歓迎です。

昨日、私が電話した後、林さんは
「電話のあと、懐かしくてアルバムを広げて見たよ、そのアルバムがNSPと大きく表紙に書いてあるオープン記念で作ったものなんだ 、そういえば「野呂山の鷹」っていうマスコットというかキャラクターも作ったよ」ということでした。
是非アルバムや「野呂山の鷹」など残っていれば拝見してみたいです。

最初は林さんと私とで話をしていましたが、そのうち永沼さんも合流いただき、とても明るく楽しくモータースポーツを趣味としている仲間のような感じでお話をしてくださいました。とても紳士的な方たちです。

そのうちNaito Fanの久保田さんも来てくれました。私では、あまりに素人すぎて何も知らないので「申し訳ない、どうしようか」と思っていましたので仲間が来てくれて本当に嬉しかったです。

林さんは当時、マツダオート(現アンフィ二)に勤務されていましたが、仕事の関係で知り合った永沼さん他、某自動車学校勤務の方たちにサーキットを作らないかと誘われ、その話に賛同されたようでした。

永沼さんたちのサーキット構想は、野呂山の入植者の方たちから、野呂山の土地を利用して何か出来ないかということで相談をうけたことからはじまったようです。その土地は元々大根を作っていたみたいで、そこにサーキットを作ってはどうかと提案されたようです。ただし、サーキットを作るにはお金はかなりかかるけれどそれでも良いならば作る事にも協力するよと話は進んでいったみたいです。

永沼さんや林さんは仕事をやめて、サーキットつくりをされました。何人かの方たちが自分たちの力で協力しあって出来たコースです。

44年か45年の3月から準備を始め、当初の目標は6月オープンだったのですが資金繰りなどの問題で結局11月オープンとなりました。大根畑からサーキットへと変わりました。林さんは、ダンプにのり、誰も来ない日でも一人でコース作りをされたこともあり、夢中でやったといわれました。コースは、地形上、ああいう形しか出来なかったということです。大きな石がどんどん出てきて、急なのぼりでダンプがひっくり返ったり、シャフトが折れたり苦労したよと笑っておられました。

企画部長の永沼さんも宣伝のために福山の方まで宣伝カーでまわったよと言われていました。ラジオの中継(パンチパンチパンチ)があったり、映画のロケ(緑摩子主演)も行われたみたいでサムソンの堀田順子さんという日本ではじめてフォーミュラーに乗った女性ドライバー?が女優さんの代わりに走られたみたいです。

やはり当時は、Fujiと鈴鹿サーキットしかなかったみたいです、その以前に東京に船橋サーキットというのがあったようですが閉鎖したみたいです。船橋サーキットのことも色々と話してくださいました。その後、中山サーキット、厚保サーキット(西日本サーキット、現ミネサーキット)などが出来たみたいです。野呂山スピードパークの経営は二年ほどしかしていなかったけれど僕らは給料は貰っていないし、僕らも仕事をやめてそこに人生を賭けたんだ、何かをやろうという力がすべてをさせた、だから出来たんだと笑いながらおっしゃられました。

お二人は、威張ったり自慢したり卑下したりなど何一つなくて、私を同じモータースポーツの仲間と思ってくださったみたいに、色んな話を楽しく楽しくしてくださいました。

 オープンの時には、見物客がすごく来て、車は川尻のふもとから上がれないくらいに渋滞して歩いて上がってきた人もいるくらいだし、コースにはほとんど観客席がなかったため観光遊園側から双眼鏡でみていた人がたくさんいた。当時、野呂山へ上るさざなみスカイラインの料金は80円くらいだったと思うということです。

  コースの全長は1300m
    ストレートは約400m
  勾配のきつい下りと上りがあった。

昼休みは必ずとり、コースをカート走行をさせていたそうです。
林さんは、車検を担当され、コースの内部にある車検場で30cmの板の上を通過させタイヤがはみ出していないかみたりしていたそうです。その後、皆より早く野呂山から手をひき、船の勉強をされたみたいです。皆から羨ましがられるくらいに、花形の職業を経験されてきたみたいです。なぜあのとき、早めに辞めたのですかと聞くと笑いながら寒い所だったからよねと言われました。冬はすごく寒いし、霧がすごく濃いところでちょうど同じ頃、セスナ機が野呂山に墜落したんよということでした。

コースのコーナーポストは電話ボックスを貰ってきて改造したり、消防車も作ったよ。コースを作るために集まったそれぞれが特技を活かしブルトーザーに乗ったりダンプに乗ったり、作るのも楽しかったと言われます。そして嬉しそうに唯一、救急車はワーゲンの新車だったんだよといわれました。管制塔やアーチ、看板などもあったみたいです。

サーキットのことを調べても何も解らなかったとお話すると、僕らも忘れていたよ、たぶんJAFの公認も取る前に止めたと思うから何も出てこないよ、懐かしいことを思い出させてくれてありがとうと言ってくださいました、感謝するのは私のほうなのに。

永沼さんは、レースの世界にどっぷりと浸かられ、野呂山ではスタートやゴールの旗をふったり、アナウンスもされていたみたいで、旗振りの動作をしてみせて下さいましたが、本当に只者ではないなという感じでしたし、その動作はビシっと規律して決まっていました。
選手の皆さんの名前やゼッケン、車名までもしっかり覚えていらっしゃってびっくりしました。
「車種はナニ、何色の車、カーナンバーは何番、車名は何よ」とすらすらと出てきて教えてくださいます。経営をしていくうちに演出も必要とわかりはじめ、そういう事も勉強されたみたいです。オープニングイベントは「マンジタツ」と言う人がカペラで走ったかな?その次のイベントではNACの塩澤会長さんが来られ、全日本ストック・カーレース?を開催したそうです。(NAC:日本オートクラブ)。ストック・カーレースとは、日本では昭和30年後半から40年前半に流行っていたアメ車のような大きな車を走らせるディトナのようなレース?。その他、タイムアタック形式のものや、ローリングスタートして始まるその頃のレースは賞品の山でタイヤが何本出ていたかわからないくらいだったよって言われました。

永沼さんはその後、増田建基さんの栄光をチーム員として一緒に見られたり、西日本(現ミネ)などでメインアナウンサーもされていたみたいです。永沼さんからは、現在F3のチーム監督の藤田直広さんやJAFの浅田さんをはじめ、新井鐘哲(速見翔)さんの名前が出てきました。

FCFC(福山カーファンクラブ)の60才のドライバーでゼッケン60大浜さん、元福山市長のマキモトさん、倉敷のオガワラキンペイさん(カーナンバー40で赤い色のサニー)を率いる小山自動車さん、現在カートショップをされているヤマガタ兄弟やFIのエンジン部品を作られている北条のケン・マツウラさん、鈴木誠一さんはマルゼン石油テクニカサニーだったなど、どんどん名前が出てきます。増田さんは最初、車はフェアレディSRだったのだけどマツダファクトリーのチーム木の実に入ってコース内に整備工場も備えてあったよということです。

なぜ廃止になったかというとねと永沼さんの方からおっしゃってくださいました。
決して経営不振ではないんよ、すごく人は集まっていたんだから。
ただね、国立公園内で爆音をたてると苦情が出て、何度も県庁に呼ばれてね、自粛するように言われたからねとそれ以上の存続はやめられたみたいです。
その後、社長さんたち開拓団の方たちがモトクロスのコースを作ったらどうかと言う話をうけてアスファルトを所々剥いだと聞いたということです。

今でも時々、レース関係の仲間たちと電話で話したりはされているみたいですが・・

永沼さんは現在も800台ほどのトラックを扱う会社の車の配車や整備などされています。根っから車が好きなんだろうと思います。そしてその頃のことを誇りに思い、モータースポーツを愛されているということが、ひしひしと伝わってきます。

「懐かしいのー、今度皆で会わんかいや」と二人で話されていました。それを聞いてとても嬉しかったです。
お二人ともその時の苦労を苦労と思わずしっかりと胸にだき、誇りと思い今もまたしっかりと進まれていると思いました。生意気なようですが、大変勉強させていただきました。



それから、幾日かたった
平成15年5月28日
他のレースのことでバタバタしている私のところにとても嬉しいメールが届きました。

それきり連絡を怠っていた私に永沼さんからの初めてのメールでそこには
********************************************************
先日は懐かしい、話を思い出させてくれて、有難う
早速、新井鐘哲と藤田直広に電話をし、昔話に花が咲きました。
当時、野呂山、厚保サーキットで開催されていました。
西日本オール・スターレースのレース委員長 濱中省吾
また、増田建基のメカニックに連絡し、今度、同窓会を
企画する事に決定しました。
また、ご連絡いたします。
元 野呂山スピード・パーク企画部長 
元 西日本オール・スターレース アナ
                    永沼
********************************************************
と書かれていました。
とても感動しました。

「わが青春のNSP」
されどお二人はそれにしがみついたり、自慢したりはされませんでした。苦労はされたはずなのに明るく楽しく話してくださいました。

とても良い仲間だったのだなと思いました。
この方たちが私たち広島のモータースポーツの原点を作られた大先輩たちならば、私たちもそれに続かなくてはいけません。
「私たちも何年後、モータースポーツを辞めてしまっても時々皆で集まったりしたいね」とアナ西元さんともメールをし合いました。

実は、私たちが発案者で現在、オールドスターの大会を開こうとしています。
このオールドスターとはこの方たちとは、一世代若い源さんを中心とした人たちとなりますが、私が知っている過去に活躍していた広島を中心として頑張っていた人たちに声をかけたいと思っています。皆、とても走ることが大好きで楽しくモータースポーツをされていた方ばかりです。
もしも都合がつくならば、その方たちの大先輩にあたる永沼さんを中心とした皆さんに見に来ていただきたいですね。

私たちのまわりに、もしもそろそろ辞めようかとか引退したよと言われる方がいらっしゃったら、辞めたとしても、ずっとモータースポーツを愛する気持ちを永沼さんをはじめ皆さんのように忘れないでいて欲しいと思いました。何才になっても同じなんだなと「熱い気持ち」を感じました。

お二人も僕らの青春だからとおっしゃいました。

             
  

Copyright (C) 2003 the NAITO FAN All Right Reserved.