まぼろしの野呂山サーキット
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野呂山サーキット
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野呂山スピードパーク
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      サーキットの施設
サーキットの歴史
野呂山スピードパーク

平成15年5月11日

友人のアナ西元さんが野呂山サーキットの跡を見てみたいとHPの日記に書いた。
その言葉を読んだ私は勇気を貰いました・・・
そして人と人のつながりをとてもありがたく感じ、良い人たちとの出会いが私のこれからの生き方に影響していくような気がします。
自分に自信をもって生きていきたいな。
わが青春のNSP

最終章


林さん永沼さんの話の裏づけになる資料を探してみました。

川尻町史より
※野呂山(NOROSAN) (瀬戸内海国立公園の一部)

 昭和30年代後半より観光開発が本格化し膳棚山付近は民間による開発で多くの遊技施設がつくられる一方それより東側の一部は自然破壊につながらないように県の厳しい指導地域になっている。昭和43年南麓の川尻町から有料道路さざなみスカイラインが開通し訪問客も増加している。山頂からははるか四国まで眺める眺望は素晴らしい、また山麓との気温差が大きく西の軽井沢と言われることもある。冬は弘法寺山近くの氷池に天然のリンクが出来る程、結氷が著しい。山域は東は豊田郡安浦町、賀茂郡黒瀬町、南は川尻町、東は呉市におよぶ。最高地点は839.4m

※野呂山の入植者の方たちの歴史を調べてみました。この方たちが野呂山で何かをしようときっかけを作られたことには間違いはありません。
野呂山の開拓は江戸、明治、昭和と周辺の町村の方たちによって何度か行われました。

入植者数 昭和21年5月 75戸329人(海外引上げ者50戸を含む)
       昭和29年3月 37戸125名

江戸時代からはじめられた野呂山の開拓は今日まで営々と続けられ数多くの人々がこの高冷の産地に尊い汗を流しまた今後も幾多の困難が果てしなく続くことであろうと記されています。

昭和29年3月の入植者数は37戸125名で1戸あたりの買い受け面積は採草地、薪炭林等を含め約5町歩となっているが耕地として利用している部分は約1町5反歩であったようだ。

昭和41年2月の中国新聞に入植者さんたちの事が掲載されていました。
農作物は野菜類、酪農が主で特に大根はここ数年の野呂山の特産として遠く阪神市場に出荷されているが最近は輪作が不可能のため行き詰まり傾向である。野呂の冬は特に厳しい11月初めには氷点下に下がり野山は霜や氷で白色に変わる。地上10cmまで凍り「芋を植える、麦を作る、気の遠いことは言うておれなんだ、明日の米代がない、日当になるものにとびついた」。 

野呂の自然に勝てず開拓者が山をおりはじめたのは25年頃である。しかし中には「国から土地を貰って死なせちゃあ勿体無い」と頑張られた方もたくさんいらっしゃいます。

昭和38年の初め川尻町は呉市長と安浦町長にスカイライン計画をうちあけ同意をとって県に働きかけた。スカイライン計画は全国で一番長い夢のドライブコースの一部として計画され観光ホテル、旅館、貸別荘、国民宿舎、ユースホステル、ファミリーランド、ヘルスセンター、ゴルフ場など巨大なプロジェクトも提案されたようです。
入植者の方たちの期待も大きかったと思います。

その計画がどうなったかは定かではありませんが、その後入植者の方たち自ら、遊園地、サーキットなどを作られたということは確かです。

当時、山から耕し、畑を作り、そこで出来た大根は高値で取引され、入植者の方たちの努力が実ったと喜ばれたみたいですが、大根は毎年の連作が困難で同じ場所に毎年植えるとよい物はできなくなっていきました。
サーキットになった場所は、大根畑だったと聞きました。

さざなみスカイラインの開通はS43年7月でした。サーキットのオープンはその後のことであろうと思われます。


※オープンの日付に絞り検索する。
    図書館に行き、新聞の記事を探し、オープンの日付を明確にしたいと思いました。
    朝日新聞にも読売新聞にもないようでした。
    当時の新聞(朝日新聞縮刷版)から
    チュリーの広告が載っていました。
    女性はミニスカートやマントやパンタロンの時代みたいです。
    44.11.3の東京都内で三人の方が交通事故で亡くなったと書いてあります。
    まだまだ車は少ない頃です。

    黒沢元治選手の記事
    富士スピードウェイ優勝者
    44.11.2(日)
    国際AB 国内ABの各級を含め2万1千人の中から選ばれた人となっていました。
    サーキットやレーサーが少なからず注目されていたことは確かだと思います。

    東洋工業の本も探してみましたがなかなか参考になるものは見当たりません。

    中国新聞社の読者広報センターに電話をして44年と45年の11月の月曜日の
    記事の中でということで探してもらえることになりました。とりあえずレースは
    日曜だろうから記事は月曜だろうと単純に考えて。何がなんでも何かを探したい。


※騒音の問題
 県庁に電話をしました。経緯が解ればいいなと思いました。自粛命令か、自粛願いかは解りませんが、何らか許可の時にも県庁が関係しているということだと思います。
しかし、20年以上もたっているので書類は何も残っていませんが、当時を知る方はそういったことがあったと思うということでした。

※当時のパンフレット
    野呂山ロッジ、安浦町、川尻町の町史編さん室
    野呂山の頂上は三町にまたがっているのでそういうものは無かったと思うということです。


※映画の撮影
    映画の名前もわかりません。

※霧のこと
    セスナが墜落したことを安浦町川尻町に聞いてもわかりません。10年程前に
    安浦町にヘリが不時着したことなら知っているといわれます。

    どんなに霧のすごい所だったかその記事でも解ればと思ったのですが。
    呉市史編さん室でそれが45年頃ということが解りました。
※安浦町役場の資料より 
 その頃の航空写真があれば良いのにと思い、またまた色んなところに聞いてみました。安浦町の役場に地籍調査用に撮ったものがあるということでした。行ってみましたが平成12年10月のものです。もしかしたら現在とも変わってしまっているかもしれません。
この写真から見る限りではところどころ障害物はあるようですがコースは何とか維持できているみたいです。

永沼さんたちに勧められて野呂山スピードパークの設立に携われた林実三さん(左)と
野呂山スピードパークの企画部長をされていた永沼勝也さん
林さん、永沼さんの言われたことから、戸別地図から見つけたコース図のようなものに色々書き入れてみました。
*消防車は作ったんよ
*唯一嬉しかったのは救急車はワーゲンの新車をかったんよ
*コーナーポストは不要になった電話ボックスを貰いうけて改造したんよ
*観客席がほとんどなかったんで、観光遊園の方からの傍観者がたくさんいてね。駐車違反というか迷惑駐車とかで困ったんよ
*福山の方まで宣伝カーでまわったんよ、何もかも皆で力を合わせたね、自分らの力でやったから。

Dこの地点は、土がずれてね、すごい苦労したよ。
Gここは6tonのダンプが上がるのがやっとだったんよ。
Bここは走行中にコーナーから飛び出した人もいたね。

話をしながら二人はお互いの記憶をたどりながら、うなづき合われていました。お二人ともまだまだ若い今のうちにお話が聞けたことがとても嬉しかったです


現在のサーキットに負けないくらいの色んな工夫をされているのに驚きました、色々まわったんだと言うことですが・・・色々と言っても鈴鹿と富士くらいしかない時代ですから。
 
※野呂山に関する記事を探しました。新聞を片っ端から探しました。
 ここまで調べてとても残念なことに騒音の記事から見つかってしまいました。国立公園、自然保護、人を集める、それらの両立とはとても難しいことだと思います。

昭和44年10月20日(月)の中国新聞より抜粋

広島県豊田郡安浦町の野呂山頂に"モータースポーツの健全な発展に"と野呂山スピードパークが十九日オープンした。マイカー族にスピードとスリルを存分に楽しんでもらおうというのがねらい。快晴の日曜日とあってこの日、野呂山は車の行列。コースは幅員15メートル、直線部300メートル、すりばちを思わせるバンク、それに続くヘアピンカーブなど変化に富んでいる。完工式につづいてプロレーサーがあざやかなハンドルさばきを見せ、五千に近いファンが若い血をたぎらせていた。日曜日にはアマレースも行うという。町のにくまれ者"かみなり族"も標高830メートルの山頂で思い切り轟音をあげることだろう〜抜粋
と書かれています。五千の人がいまだかつて、そしてその後も野呂山に訪れたことがあったのであろうかと思います。プロレーサーの試走をストレートの観客席から見守るファンたちの数ははんぱなものではありません。

昭和44年10月25日(土)
行楽の記事には、三段峡や道後山、比婆山、二級峡とともに野呂山とあり、瀬戸内海国立公園のほぼ中央。〜(中略)〜八百四十メートルの頂上に着くと山の紅葉と海の背のコントラストが素晴らしい。頂上には国民宿舎が一軒ある他ちょっと下がったところにレストハウスもある。最近、牧場遊園地、野呂スピードパークのサーキットも完成し、子供連れのマイカー族がどっと繰り込んでいる。


そして
昭和46年11月19日の記事より
戦後、国立公園野呂山(標高830メートル)=広島県豊田郡安浦町=に入植した開拓農民が農業に見切りをつけ、さざなみスカイライン(県営有料登山道)開通をしおに観光業者に転身、総額四億五千万円にのぼる自動車レース場やコースターなど施設を造成、営業を始めたとたん、自然保護の声が高まり「騒々しくて山の雰囲気をだいなしにする」と県から観光事業に待ったがかかった。
〜(中略)〜ところがスピードパークでは自動車の走行音、牧場遊園ではコースター、バズーカ砲発射音が激しく、県の調べでは、レース時の騒音はコース外側で八〜十台走行の場合七十七〜七十八ホン、二〜五台で六十七〜七十ホン、約二百メートル離れた十文字ロータリー北端で六十一ホン。コースター、バズーカ砲もほぼ同じ数値。また二施設の観光客寄せのマイク騒音は、風向きによっては約1キロ離れた呉市営バス総合サービスセンター付近まで聞こえる。〜中略〜
野呂山開拓地には、一時七十数世帯が入植し山頂部を開拓し野菜を作って生活していた。しかし、登山道路が開通したのを機会に下山者が続き、現在は〜二十世帯が残るだけ。〜数世帯が観光業者に転身したわけだが、すでに計四億五千万円を投資し現在、施設改善の勧告に困惑しており〜以下省略

オープン時に五千人の人を集めた施設です。何か最善策はなかったのでしょうか。
その後、野呂山にこれだけの人を集めた日があったのでしょうか。
色んなことがわかってきます。それでも、林さん永沼さんお二人にとってもそして当時走られていた方にとっても、思わず顔に笑みがこみ上げてくるほどの楽しい思い出の場所で、楽しかった、青春だとおっしゃられます。引き際も見事ですね。永沼さんは、「今、僕にサーキットを作らせたら日本一のサーキットを作ると思うよ」って笑いながら言われました。「しかし並大抵ではないよ」とも言われます。十年ほど前にやはり私のような方が永沼さんを訪ねてこられ「サーキットを作りたいという人のスポンサーになろうと思うのですが、話を聞かせてもらえないか」とおっしゃったらしいです。「中途半端ならやめんさい・・・資金があるのなら大丈夫だけど」と。その話はそれで終わったようです。

お二人の話しを聞かせていただいて調べたいという私の気持ちは大きくなりました。色んな人にとても親切にしていただきました。


図書館の資料より

全日本のストックカーレースをしたよと言われた永沼さんの言葉を元にインターネット検索をしていましたら、とても素晴らしいHPに出会いました。マニアの方は声を上げるくらいの素晴らしい資料です。東京ご出身の牧野さんと 言われる方にぶしつけではありましたが、何か野呂山についてご存知ないでしょうかとメールをさせていただきました。

◆「くるま村の少年たち」主宰者牧野様よりの返信◆
抜粋〜御察しの通り1970年5月5日に行われた西日本初のストックカーレースが「野呂山スピードパーク」で行なわれました。野呂山は国立公園で呉市から車で40分のところにある海抜750m地点にあるサーキットであったと当時のオートスポーツ誌に記載がありました。
1周900mのコースでかなり4輪のレースには狭すぎる感があります。
当時のストックカーレースの常連である鈴木誠一氏(故人)、寺西孝利氏、田村三夫氏、津々見友彦氏らが招待されてレースが行なわれました。
優勝は寺西選手で真田選手、田村選手がその後に続きました。また、当時のサーキットは鈴鹿、富士、船橋(67年で閉鎖)、筑波などでJAF公認レースが行なわれていました。野呂山は日本で多分4番目に出来たサーキットコースで狭く長さが短いためその後はあまり使われていなかったようです。
ちなみに1972年7月2日にはやはりNAC主催のストックカーレースが東北地方初のレースとして出来たばかりのむつ湾インターナショナルスピードウェイで開催されています。このサーキットはその後閉鎖されました。

そしてそれらの資料を送っていただきました。牧野資料館にて公開します。

また牧野様の「くるま村の少年たち」

全日本ジムカーナin Hiroshimaがあった平成15年6月1日新井鐘哲さんの息子さんがジムカーナ会場にお宝を届けてくださいました。とてもきれいに保存してあり、その後、見ていただいた藤田さんも、永沼さんもびっくりされていました。

そしてそのジムカーナの組織委員長である藤田直広さんにその写真などを見ていただきました。この当時に藤田さんがレースの世界に入られたみたいです。


ここで、野呂山サーキットの調査は一応終了いたします。
今後、サーキットの跡地を見学に行ってみるとかの進展がありましたら、また報告することもあるかもしれませんが・・・。

昭和49年当時のサーキット周辺航空写真です。
この記事を読んでくださった全国の方たちより、ご連絡をいただきました、ありがとうございます。
http://nlftp.mlit.go.jp/Air/photo400/74/ccg-74-7/c40/ccg-74-7_c40_31.jpg



最後に、とても古い話なので、同じような経験でも同じような出来事でもそれぞれによって見解が異なる場合がありますし、感じ方も違うと思うのです。もちろん矛盾もあるかもしれません。それでも、なるべく中立の立場になれるように考え、今回はサーキットを作った方に色々お話を聞きました。それにしても、管理人の主観的な見方である事には変わりないと思います。
しかし、そうした見方の中にも最初と現在のつじつまをあわしながら、管理人の立場としてサーキットの歴史の一端をまとめるように努力したつもりです。
自然保護とかそういうことに意義申し立てをしているわけではなく、モータースポーツを愛するものとしての素直な気持ちでこれらを調査しました。多くの方にお世話になりましたことを感謝いたします。
ここからは、資料館、写真館として大切な資料や写真をお借りしたものを掲載します。
        小山自動車写真館 (当時の小山自動車サニーなど)    
        まきの資料館(当時のことをすごくご存知で日本の古いレースを中心にした資料から
                  私のために資料を送ってくださいました)     
        あらいさんちの写真館(速水翔さんのお宝)
               〃    サーキットの施設  
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